niwaringo.masuda

ひとりますだ

絵本が教えてくれる「あたり前のことをあたり前にする」というが難易度高すぎる

あー、楽がしたい、楽がしたい。これ、「ベンガルの民話 たまごからうま」という絵本の中でダーという男性がつぶやく名台詞。絵本らしく、このあとダーは、楽をしようとして大変なことに巻き込まれていくのだけれど‥‥

楽をしようとして結局大変なことになるのは、そこかしこにあふれている。絵本のお話ほど大変なことは起きなくても、「楽するために右往左往して結局くたびれただけ」なんてことはよくありすぎるくらいある。

こういうときは、「結局、あたり前のことをあたり前にするしかないんだよな」といういつもの壁にぶち当たるのだ。右に行っても、左に行っても、前に行っても、後ろに行っても‥‥ いっつもこの壁だよ、まったく。

最近は目の前のことに腰を据えて、「これはあたり前のことか?」なんて自分に問いかけて、あたり前のことなら徹底的にやる。と書けて成功譚のひとつでも披露できればカッコいいのだけれど、やっぱり徹底はむずかしい。

なぜって? となりの芝生は青いから。青い鳥はどこか近くにいそうだから‥‥

絵本やことわざは目の前のことをまっすぐ見据えて実行することのだいじさを伝えてくれているんだけどねぇ。昔から言い古されているものっていうは、真実である反面、難易度も非常に高いものなんだよなーって自分を慰めている次第です。ペロペロ :P

 

photo by Edzed Photography

たまごからうま (世界の民話傑作選)

たまごからうま (世界の民話傑作選)

カラッカラに乾いた土をいじって楽しむ

さいきん、めっきり雨が降っていない。土はカラッカラに乾燥している。

大人になると、カラッカラの土は「ホコリがまってやだなぁ」なんて感想しか思いつかないけれど、子どもにとっては絶好の遊び道具になる。

今日、息子さんと公園にお散歩にいったら、彼は、カラッカラに乾いた土をすこし鋭利な枝で突っついて乾燥した土の破片を量産する、という非常にリーズナブルな遊びに夢中になっていた。

ザックザック、ザックザック、放っておいたら2時間でも3時間でも続きそうなその様子はみていて壮観である。うそ‥‥ 勘弁して欲しかった。

そういえば昔は、自分も乾燥した土をそのへんの枝で四角く掘って、石版のようなものを作るという事に夢中になっていた。

でもいまは、息子さんを見ていて楽しんだり、遊んでみようとしてもすぐに飽きる自分に少しショックを受けたりするだけだ。土いじりを純粋に楽しむことは難しい。

たまに、大人力をいかして、この土を剥がす行為と、先ほど公園までの道すがらで工事していたアスファルトを剥がす行為は基本的に同じだなー、なんて他のものとの類似性に思いをはせて、そこからアレやコレや妄想するくらいだ。

「ああ、もう、土いじりを純粋に楽しめないんだな〜。大人になると、他との類似性とか頭を使う事をどうしてもしてしまうな〜」なんて、強引に物思いにふけりながら子どもとは違う楽しみもあるかもな、なんて自尊心をたもつために思っていた矢先‥‥ 息子さんが「これ、さっき見た工事現場と似てるね」なんてことを言うんですよ。こいつ、すべてにおいて俺の上をいって楽しんでやがる。

ま、ただの親ばかなんですけどね。

 
photo by elvisripley

現場たたき上げ成功者が書くビジネス書の読者とのミスマッチ

バリッバリの現場たたき上げで成功した人たちが書くビジネス書っていうは、人気のコンテンツパターンですよね。成功した人は自分語りできるし、読者も実績あるひとの話を読めるし、うん、うぃんうぃんかも知れんね。

でもですね、この手のビジネス書が役に立つのかって言うと、どうにもなかなかむずかしい。

本の中では、作者がつくりあげてきたノウハウが惜しみなく披露されていますよ。だけどね、それって、けっこう普通のことだったりします。「成功の秘訣はメールの返信を高速で!!!」レベルの事が自慢を交えながらドヤ顔で書いてあるだけ、なんてパターンが多くないですか。

Disってるわけじゃないんですよ。だって、作者は実際にこれらをしっかりやってきたらかこそ、成功しているわけなんですから。凡人がしたり顔でDisることではないでしょう。

でもですね、少なくない読者は、「目新しいなにか」を求めてビジネス書に求めているのも事実です。もちろん、作者もそれは百も承知のうえで、自分のノウハウをドヤ顔で披露しているんですが、作者にとっては新鮮でも、読者にとっては使い古されたものが多かったりする。

こうなると、作者は「ドヤッ」って出しているのに、読者は「新ネタはよ!」っていう悲しいミスマッチになってしまう。

アマゾンのレビューなんかみてみると、こういう状態が結構あります。悲しいことですよね。

もしかしたら、「本」という形態では、このミスマッチは防げないのかも。それよりも、スポーツクラブのダイエットのように、ノウハウというより実質は実行にプレッシューを与え続ける会員制サロンみたいなほうがいいのかも。

 

photo by @KevinCase

こころのなかでリトル佐野元春にロックかどうかを判定してもらう、というのがおすすめ

むかし、芸人のぐっさんと一緒に佐野元春がテレビ番組をやっていたことがあったんです。

視聴者からの質問に対して、佐野元春がロックかどうか判断する。あの独特の声で「ロックだね」なんて言うんですよ。当時から佐野元春が好きだった自分にとっては、もう、インパクトがすごかった。爆笑しながらカッコいいーなんてしびれたもんです。

それ以来、なにか困ったことがおきたときは、こころの中に佐野元春を思い浮かべて、そのリトル佐野元春にそれがロックかどうかを判定してもらっている次第なんです。

リトル佐野元春がロックかどうか判断してくれるだけで、すこしクスッとして、こころがすこし平和になるんですよ。

イライラして相手にダメージを与える嫌な言葉を思いついた、「ロックじゃない」、その言葉は捨てよう。さっき叱った子どもがすごすごと近寄ってきてくれた、「最高にロックだね」、全力の笑顔で出迎えよう。

なんてね、おすすめですよ。

(敬称略)

 

photo by Sean Davis

顧客は自分の欲しいものをしりたいという似非コンサルタント先生

「顧客は自分が欲しいものを知らない」、こう話すコンサルタント先生は多い。この手の人たちはつづけて、「知ってる? フォードはね、顧客の声を聞いていたら『車』ではなく『早い馬車』を作っていたんだよ」みたいなよく知れた逸話でドヤ顔をしてくれるんです。

でも、ちょっとまって。あなた、フォードじゃない‥‥

すこし、別のお話をさせてください。

 

ある女性がですね、服を選んでいたとします。その人、手に持っている少し予算オーバーのシャツで悩んでいるみたいです。

そこに謎の男が突然やってきます。そして「あなたがほんとうに欲しいのはそれではない!」なんて断言くるんです。男は続けます。「あなたがほんとうに欲しいのは、適度な寒さをしのげる布。シンプルにするとソレだけです。だからこのTシャツなんです。費用対効果を考えればコレが最適解」なんて叫びながらヨレヨレのTシャツを渡してきます。

「ぼくはね、服のプロだからね、間違いない」なんて自信満々。聞くと、男はどうも、倉庫のバイトで毎日服を見続けているそうです。

女性は「うるさい」と言って怒って帰るんですが、男はめげないどころか「う〜ん、わかってないなー。彼女は服に対するリテラシーが足りない」なんて空を見上げてため息をついてます。

 

なんてお話。こう書くとわかりやすく最低なんですが、身の回りに似たことが転がってませんかね。

フォードをきどって、自分のもっている知識や、経験だけで、勝手に相手を見下して「顧客より自分のほうが分かっている」と勘違いしているひといますもん。

私はその道のプロなんて言っているけれど、じつは脇道からその道をみていて見くびっているだけの人をあったことあります。あの業界のシステムをたくさんつくったから私はプロだ。あの業界のウェブサイトをたくさんつくったからあなたにマーケティングコンサルします。なんのギャグかな。

「顧客は自分が欲しいものを知らない」ってのは、確かにその通りな事も多いんでしょう。でもね、似非コンサルタントのソリューションがそれに替わるわけではないん DA・YO・NE

 

photo by brizzle born and bred

田舎者というなおらないもの

わたしは大人になってから田舎から東京にやってきた上京組です。むかしでいうオノボリさんやね。もうね、根っこの根っこから田舎者。

そんなわたしも東京に数年間住んで、息子さんができました。彼なんか生まれも育ちも東京。わたしからみれば超都会っ子。

同じ年数、いやわたしのほうが東京歴は長いにもかかわらず、わたしは田舎者で息子さんは都会っ子。

この違いってなんなんだろうな〜って思うわけですよ。

自分のことを田舎者だなーって痛感するのは、都会は人が多くて苦手なくせに、行くと誇らしくなるんですよ。「いま、おれ新宿に来てるよ」なんて誰かに言いたくなる。大都会にいるおれ、かっけーみたいな。

だって仕方かないじゃない。中高生の時とかって、電車で40分くらいかかる地方中堅都市にどれだけ行ったかがステータスだったんだから。月1回いっていたりすると、もう垢抜けている認定されてからね。わたしは半年に1回行けばいいほうだったけど、2〜3ヶ月に1回いっていると嘘ついてた。きっとバレバレだったろうけどね。

そんな環境で育ったもんだから、「都会に行くこと = ステータス」という脳みそになってるんですよ。

あたまではわかってるんですよ。そんなのステータスでもなんでもないって。でも、染みついた習慣は悲しいもので‥‥ いまでも都会にいくと「あ、おれ、都会にきてるな」ってドヤ顔したくなってしまう。

息子さんが大きくなったら、こんな感情は抱かないと思うの。彼にとって都会に行くことは普通のことだから。

ちなみに田舎育ちだからといって自然が大好きなわけではない。緑に囲まれたところに行けば確かに気持ちいいですよ。だからといって、自分で計画をたててキャンプとかはしない。自然に無頓着なんです。

でも、息子さんには自然に触れて欲しいと願い、積極的に公園活動をしているのは、われながら笑っちゃう。とくに理由はない。でもそうしたほうがいいような気がしてる。これはきっと人間の内から湧き出る無意識な感情なので、バカな意識よりは信じてそうしている。ちなみに下手な田舎より東京のほうが触れられる自然は多いからね。この点は東京に住んでいて非常に助かっている。自分の田舎、触れられる自然には車でいかないとダメですから。

わたしにとっての都会は非日常で、息子さんにとっての都会は日常なんだね。これが、田舎者と都会っ子に違いなんだろう。

で、この田舎者というのは一生治らなくて、なんかこじらせてしまいがち。こじらせると無意味に都市論について語りだしたり、都市と地方の格差について過剰に都市を擁護したりと、ろくなことがないので気をつけたい :P

 

photo by osamukaneko

Slackほめてもコミュニケーションの問題は解決しないよね

メールなんていまさらオワコン。これからはSlackやでー。なんて、Slackがコミュニケーション課題を大きく解決しているように取り上げられる風潮があります。

いま、IT業界ではたらいていると右を向いてもSlack、左を向いてもSlack、Slack、Slackです。たしかに便利だし、UI・UXもいいし、スゴい評価額も納得ですよ。

でもね、ちょっと冷静に考えて欲しいんです。Slackはほんとうにコミュニケーション課題を解決しているのでしょうか?

ドキュメントの整備とか、コンテキストの共有なんていう面倒くさいコミュニケーションの下準備をちゃんと直視してますか? そこはSlackでは改善しないでしょ、なんて思うわけなんです。

ちゃんとやるべき嫌なことから目をそらして、目の前の逃避手段に夢中になるのは、なんだかな〜なんて思いません。

例えるなら、スゴく優秀な人がやめてしまったあとに、新しく入ってくる人を過度に持ち上げて勝手に期待する、ダメな偉い人みたいです。

考えてみてください。新しい人の歓迎会で、ダメな偉い人が「辞めたあいつは分かっていない。新しい◯◯くんの方が何倍も優秀だ。これでこの会社も安泰だ」なんて言っていたら、頭おかしいな、って思うじゃないですか。

直視すべき問題は「なぜ、優秀な人が辞めてしまったのかだろ」なんて思いません。新しい人が優秀かどうかはさておいて「なんであの優秀な人は辞めたのか考えろよ」って思うじゃないですか。

これと同じで、なんでコミュニケーションがダメなのか?という原因究明をちゃんとやって対策せずに、Slack便利〜ってやっていても、良いことないと思うんですよね〜。

まあでも、古今東西、コミュニケーションの課題なんて解決するはずもないんでしょうけどね :P

 

photo by Ed Yourdon

老いて「喧嘩するほど仲が良い」が減っている

どこでどうつちかわれたのかはわからないが、仲良くなるためには何度か喧嘩しなければならない、という価値観が自分にはある。

だから、だれかと仲良くなったりすると「きっと、どこかで喧嘩するんだろうなぁ」なんて恐くなる。

仕方がないじゃない。もっと仲良くなるためには喧嘩は必要なんだもの。ほら、喧嘩するほど仲が良いっていうことわざもあるんだし。

嫌なもんですよ。喧嘩するのは。とくに仲良くなりたいひとと喧嘩なんかしたくない。でも必要なんだよなぁ。いつくるのかなぁドキドキするなぁ、というのがグルグルまわるんです。

仲良くなるために喧嘩が必要だからといって、無理して喧嘩しようとか、相手のあらを探してやろうなんてことはしないんですよ。名誉にかけてそんなことはしていない‥‥はず。

でも、他人と付き合うのだから自然と起伏がでるもんで、いい時があればそれだけ悪い時もでてくる。

で、起伏が下のとき、なぜかその人と少しうまくいかないことが出てきたり、特に原因があるわけでもないのにその人によくない感情が芽生えると、ほっとするんです。「あ、きたきた」なんてね。「これ、乗り越えないといけないやつや」なんてね。

こんなこと書いてるけど、元にもどらなかったこともあるしね。まぁ、そういうのは仕方がない。

それよりも、歳をかさねると、起伏がでること自体が少なくなるんです。これはつまり仲良くなれる人が少なくなっているのかもしれない。まあ、そんなにたくさんの仲良くなりたい人がいるわけではないのだけれど、老いたなーなんて感じて少し悲しくなるんですよね。

最近は歳をとったら‥‥ みたいなことばかり最近書いてるな〜。次はもっと若さあるれるエネルギッシュなやつを書きたいな。

 

photo by ulisse albiati

ひと昔前のビジネス書よんでからに古典をよむ

「新時代の◯◯」とか、「これからは◯◯」とか、「テクノロジーによるインタラクティブな◯◯」なんて、お仕事でふれる情報には、他社との差別化のために使う、いろいろなあおり文句がおどっています。

歳をとったのに、こういうみてくれだけに目を奪われるのはダサい。どんだけ無駄に歳くってんだよって。

きれいにおおきくひろげられた風呂敷に目を奪われて、ふらふらしてしまうと、なにもいいことがないのは、経験上わかってる。

でも、やっぱりキレイな風呂敷が気になるのが人情ってもんです‥‥

こういう時は、深呼吸して少し前のビジネス書を読むようにしています。10年とかそれくらい前のビジネス書を読んで、当時の最先端キラキラを使っている最先端企業の事例を咀嚼するのです。そして、現代にもどって現実をみるのですよ。

結果はみなさまのご想像の通りです。言わずもがな。

きっと人生そこまで長いものじゃないと思うんです。目の前に振り回されて、あっちにふらふら〜、こっちにふらふら〜、なんて時間はないはずなんです。

少し意識高いことを言うなら「表面的なものに流されるずに、普遍的なものに注力する」って感じでしょうか。

でもこれは、正しくてもけっこう無理ゲー、凡人のわたしには無理ゲーなんです。

だから、どこかの偉い人がいっていた「古典を読め」というを少しずつやっています。自分では普遍的なものを見つけるのが難しいから、時間の淘汰のちからを借りる。

時間、ありがとう。

ことしも結構ふらふらしちゃったけど、それでも少しずつは良くなってるかなって自分を慰めている年末です。岩波文庫もKindleがでてるから、年末はもうすこし古典をよもう。

 

photo by quinn.anya

飛び込み営業を晒しものにする下品さ

飛び込み営業は迷惑だ。これ、多くの人たちにふわっと支持されるでしょう。ツイッターなんかでも「そうだそうだ」なんて同意をたくさんもらえます。

こういうのがスゴく嫌いです。

SNSで飛び込み営業をくさすのは簡単ですよ。でも、苦労して入社した会社が飛び込み営業だったら。やるしかないじゃない。ヤメればいいって言うのは簡単だけど、普通は恐くてできないからね。

たしかに、飛び込み営業とかテレアポが迷惑って感じることはあると思うんです。

でも、それをソーシャルやらまとめ記事にして、多くの人の同意を取り付けて、やっている人たちを直接的や間接的に晒し者にするのは、下品だよ。

photo by Joe Plocki (turbojoe)

一を聞いて十を知っちゃうとケンタウロスは楽しめない

一を聞いて十を知る、という言葉があります。

たしかにこの言葉が意味するように、ものごとの一部を聞いたら全体を把握してしまう優秀な人はいます。

自分がそうじゃないから想像なんですが、こういう人たちって、今までの自分の経験や他のものごとを使いながら、聞いた一(いち)から残りの九を想像して十を知っているじゃないですかね。

なんでこう思うかっていうと、一を聞いて十を知る人たち、たとえ話がおおい気がしませんか? 自分も比喩を使いながら理解する癖があるから、ほかの人に説明するときは比喩が多くなるんじゃないのかなーって、なんの根拠もないけれど信じてます。これ逆はなくて、比喩をおおく使って話すようにしても、一を聞いて十を知るようにはならないのが悲しいところなんですけどね。

ただ、これ、きっと負け惜しみなんですけど、一を聞いて十を知っちゃう能力が高すぎることにもリスクあるよね、なんて勝手に心配しているのです。

ものごとの一部で全体を把握してしまう癖がついてしまうと、全体を知らないままになるんじゃないのか。なんてね。

例えばなんですけど、ケンタウロスっているじゃないですか。一を聞いて十を知っちゃう人って、頭だけみて「あー、人間だよね」って思ったり、下半身だけみて「うん、馬だね」なんて思ったりする傾向あると思うんです。

そうなると、珍妙なケンタウロスなんて生きものを楽しめないですよね。モッタイナイ。

ごめんなさい、やっぱり十を聞いて一(いち)しかわからない私は、比喩が下手ですねぇ。

なにが言いたいかっていうとですね、世の中は無駄なものがスゴく多くてもね、それも含めて十だから、一(いち)ばかりで判断して、スリムにしてしまうのって、なんかさみしいなって。想像で全部をわかった気になってしまうのって、なんかモッタイナイなって思うわけですよ。

一を聞いて十を知ることは出来なくてもですね、無理して一部から全体を把握しようとせずにね、ありのままで真っすぐにものごとを見れば、世の中おもしろいことがたくさんあるよね、って思う次第です。

 

photo by F. Tronchin

プレおっさんからの卒業

「いや〜、おっさんになったな〜」なんて二十歳を過ぎたあたりから何度となく言葉にしてたんですよ。すこし笑顔でね。

でも、アラフォーにもなって本当のおっさんになると、「20代〜30代前半に感じていたおっさんになった」って、本当はおっさんではなかったな〜、って思う。

言うなれば、おっさんの前段階「プレおっさん」です。

プレおっさん期って「俺はおっさんだ」って言いたいだけなんだよね。

だってプレおっさん期って、加齢臭に悩まされることもなく、物忘れも全然ないんだよ。いまなら「おまえ、本当の物忘れはそんな笑顔では言えないぞ! すごく‥‥ すごく物悲しくなるんだからな」って、小一時間問い詰めたくなる。

プレおっさんって、子供からうまく卒業できていなかった現象なのかも。20代前半の学生時期は、からだは大人でも社会的にはまだまだ子供扱いされる。そのあと社会人になっても、しばらくは周りから「若いなー、若いなー」って言われ続ける。

こんな状況に反抗するために「いやー、じぶん、もうおっさんですよ」なんて言っていたのかもしれない。

プレおっさん、もしかしたら第3時反抗期なのかもしれんね。大人の自我を獲得するための反抗。第1・2次と同じで期間の長短はあるだろうけど、自分のまわりはほとんどみんなこのプレおっさん期があった気がする。

結婚したから、子供が出来たからとか、特徴的なイベントが引き金になって、すぐにプレおっさんを卒業できるものではない。これらは大きな影響は与えるけど、それだけじゃなくて、お肌のハリとか物忘れとかそういうからだの変化も加わりながらじわりじわりと進行していき、ある日「あ、プレおっさん、卒業してたわ」って振り返って気がつく。

プレおっさんの後にくる本格おっさんは、まあ、外からみるとただのおっさんなんだけど、すこしは多面的にものを見れたり、人に優しくなれたりと、結構いいもんだよね。「歳を取るのも悪くないね」って負け惜しみがほんのちょっぴり入りながらだけど、そう思えるもの。

きっと、あと10年もしたらこんな考えも「若いなー」なんて思うのかもしれないけどね。それはそれで楽しみ :)

 

photo by Game of EPL5 & LUMIX G20/F1.7

相対的な差別化レースから脱出するのがブランディング‥‥かな

「競合との差別化ポイントを◯☓表にして提出してください」

差別化、差別化、差別化。

マーケティングや営業のお仕事をしていると、いろいろな場所でこの言葉に悩まされるもんです。

商談の席では「差別化」という言葉が、「こんにちは」っていうあいさつのように、気軽に考えなしに出てきます。いや、自分が話す競合との差別化なんてコッチに都合がいいように答えるに決まっているのだけれど、聞く方もそれは織り込み済み。社長のFacebook投稿へ「いいね」するように、とりあえずやっとけ的なノリで聞かれたりすることも多い。

「そんなの自分で調べてよ」って思ったりすることもあるけれど、正直、差別化をとりあえず聞きたい気持ちもわかる。

なにかを評価するときって、だいたいは相対的にしか判断できないんだよね。自分が判断する時もそうだもの。いま面と向かっているこのパソコンだって、他の製品とか、今までの経験がないといくらの価値があるのか、なんてキチンと判断できないと思う。

売る方だってそう。競合より値段がたかいけど価値があるから大丈夫、参入障壁を上げるために値段を下げ続けよう、機能は勝てないから値段勝負に持ち込もう、なんていろいろと相対的な影響を受けながら値段や価値を決めている。

でもね、理想を言えば、相対的な評価ではなく、絶対的な評価で判断してほしいし、したいよね。

「ぼくだけをみて!」 「だれかじゃなくてあなたなんだ!」ってね。

もしかしたら、この「ぼくだけをみて」っていうのが、ブランディングなのかもしれない。いや、そうだ、絶対評価をしてもらうことがブランディングなんだよ。

この考えがあっているのか、まちがっているのかは調べない。よいのか、わるいのかも知らない。

でも、自分がなっとくする言葉の定義なんて、誰にも迷惑をかけることはないから、絶対評価で「いいね」ってしてもいいんだよね。増田みたいなブログだもの :p

 

photo by Captain Kimo

全体最適というモンスターの前でだいじな部分が危ないなら逃げちゃえばいい

部分最適と全体最適という言葉がある。

部分の最適化を繰り返していっても、全体の最適化にはならないし、全体最適をすると部分が跡形もなくなったりするは、みなさん御存知の通り。

部分が集まった全体なのに、最適化しようとすると、なぜかこんなことになる。いい悪いではなくそういうものだ。

無責任にコメントしていいのなら「やっぱり部分は犠牲にしてでも、全体を最適化していかないとね」とか言いたい。

だって、そのほうが頭良さそうじゃない。

でも、自分の価値観として、目の前の部分が全体よりだいじな事が結構ある。「たとえ自分にとって部分がだいじでも、全体最適という俯瞰の観点でね、ほげほげほげ」なんて口が裂けてもいえない場面が意外とある。

抽象的すぎて分かりにくいかもしれないけど、自分の専門職と会社全体とか、子供と学校全体とか、家族と社会全体とか、全体より部分がだいじなことってたくさんあるもの。

でも、自分の目の前のために全体が悪くなるがわかりながらゴネるのは、なんとなくしのびない。だからね、全体最適のお題目のために目の前の部分がダメになりそうになったら、逃げればいいんじゃないのかな。一目散に逃げるのが難しかったら、そーっと、しれっとね、逃げちゃえばいいんじゃないのかな。

 

photo by tiemposdelruido

とんとん固められたアルミホイルといいアイデアは似ている

ちいさなころ、小学生ぐらいだったかな、それくらいの頃に「アルミホイルをとんとんやって固める」という作業が好きだったんですよ。

ロールから、きれいなアルミホイルをびーってひっぱり出して、くしゃくしゃって丸めて、あとはひたすら机とか床でとんとんとんとん固める。

いちど、くしゃくしゃになったものが、とんとんをくり返すと、ピッカピカに輝きだすんですよ。

いま思えば、暗い子ですねw

アイデアの出し方も、これに似てるとおもいませんか。

ぼくにとって、アイデアはひねり出して固めるものなんですよね。

「神が降りてきた!」「湯水のようにアイデアが湧いてくる」なんてことはない。あったとしても、糞みたいなアイデアだと思ってるんですよね。

キチンとしたアイデアは、はじめにとにかく沢山だして、そのあと、いっぺんグチャグチャになって、このままじゃダメだって、こつこつ出したアイデアをつぎはぎしながら固めていく、そんな苦行みたいなすえにしか生まれないと思ってます。

沢山だしたものギュッて固めるから、ちゃんとしたものになるんだよ、きっと。

ほら、アルミホイルをとんとん固めるのと似てると思いませんか。

あー、でもね、きちんと固めたつもりでも意外と脆くて崩れやすいところまでそっくりだから‥‥ 困ったもんです :)

 

photo by johnynek