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ひとりますだ

コンビニコーヒーに現れる王者セブンイレブンのコンビニ力

Miyano Seven Eleven at Dawn

絶対王者。売上もさることながら、コンビニ王者としてのセブンイレブンの地位は揺るぎない。

セブンイレブンのコンビニ力の強さは、コンビニコーヒーによく表れている。ファミリーマートで比較してみよう。

まずはサイズ。ファミマ、セブンともにアイスコーヒーは2種類だが、サイズの呼び方が違う。ファミマは「S」と「M」なのに対してセブンは「R」と「L」だ。内容量は違わないだろうが受ける印象は大きく違う。庶民的にお得に感じるのは「L」の方だ。

次に容器。ファミマではアイスコーヒーとアイスカフェラテが同じ容器である。必然、毎回店員さんに「どっちですか? コーヒー? カフェラテ?」って聞かれる。これ、返答するのが面倒。「アイスコーヒーです😗」と毎回言うのも面倒だし、言う前から「アイスコーヒーですよね?」なんて常連扱いも面倒。セブンではちゃんと容器自体が「透明(アイスコーヒー)」と「黒の不透明(アイスカフェラテ)」で違うから、こんな心配は無用なのである。

コンビニにはコミュニケーションは求めない。求めるのはスピードなのだ。

「細かい事もネチネチと……」と思われるかもしれない。しかし、こういう小さなつみ重ねが大きなコンビニ力の違いになっているのだろ感じている。

データは相関していないが状況は相関しているというダークサイドほいほい

デジタルマーケティングにおいての効果測定は日進月歩である。今日はなんとなくしか分からなかったものが明日にはデータでわかるようになっている、かもしれない。

例えば、オンライン広告なんかは、クリックだけでなくビュースルーでのコンバージョンが媒体の管理画面で分かるし、CRM系データとつなげると媒体をまたがったアトリリビーション的な分析も可能だし、LTVと広告をつなげることも可能になる。

広告費用がブラックボックスと言われていた時代を経て、いまではさまざまなデータが結びついて直接的な効果測定が可能になりつつある。

しかしである。データのつながりではどうやっても相関、因果関係がないのに、現象としては相関しているという状況が生まれることがあるのだ。

たとえば、ディスプレイ広告を出稿するとコンバージョンがふえる。しかし、コンバージョンユーザーの履歴を見ても該当広告に接触した経歴はないし、媒体側でもビュースルーは上がっていない。

つまりディスプレイ広告とコンバージョンに関係はみられないため、ディスプレイ広告は失敗という判断になる。

なので、そのディスプレイ広告をやめることにする。するとだ、コンバージョン数が落ちる。あれ? なんて思いそのディスプレイ広告を再開すると…‥ コンバージョン数が増える。でもやっぱりデータに関連はみられない。こんなのが手を変え品を変え繰り返される。

どうしろってんだ。

いやー、データがすべてでないよ。なんてダークサイドに堕ちそうだよ。

ニコニコはおじさんのものという記事をよんで

togetter.com

ニコニコ動画とかニコ生は若いひとたちのものだと思っていた。

ただ、それは既に過去となり、若い人は閲覧するための動画はYoutubeでみて、コミュニケーションとしての動画はスナップチャットやLINE_LIVEだそうだ。

マーケティング系メディアでは、若者はスナップチャットスナップチャットとしきりに取り上げているが、どうも本当なのだろう。

話は変わるが、若いときには「大河ドラマ」や「NHK朝ドラ」を見ているひとは、親を除けばまわりにいなかった。しかし今はどうだ。真田丸だ、あまちゃんだ(古いのは承知)という話題に囲まれている。

大河ドラマや、NHK朝ドラというものは、一定以上の年齢になれば観るようになる傾向があるのではないだろうか。

翻って、ソーシャルプラットフォームでこのような性質を持つサービスはみあたらない。冒頭の例で言えば「ニコニコはおじさんのものだが、歳を取るとニコニコを使うようになるよね」というような現象は起きていない。

コンテンツの創出をユーザーに任せると、常連の加齢にともないユーザー層が加齢していくのは仕方がないのだろうか。

なんてことを考えながら、若い人のサービス情報をメディアから取得しないとわからない自分に幻滅している今日このごろである。

雨の日はやる気がでない

p1370413

雨の日はなんとなくけだるい。やる気がでない。

いろんな情報が錯綜しているが、実際にわたしの身体は雨・低気圧になると頭痛を発症することがおおいし、そもそもやる気がでない。

雨のちからは強大である。だからやる気がでない。

「いやいや、雨のちからはそんな大したことはない。気合が足りんのじゃー」というマッチョな考えもあるかも知れない。でもさ、そういう考えを聞くことすらも雨の日にはしんどい。「雨だからね〜」ってさらりと流したい。雨の日に針小棒大は似合わない。やる気が無いにそんな意味はなく、ただただやる気がでないだけである。

こんな駄文を書いてみたら、やる気が出てくるだろうか? って思ってみたけど、やっぱり駄目だった。

ルールは守らないけどルールを作りたい人、自力で育ったけれど教育したい人

「もっと効率化するためにルールをつくりたいんだ!」、「やっぱり教育だよ、教育」。

ルールをつくるのが大好きな人、教育したくてたまらない人が社会にはびっくりするくらいたくさんいる。

学生時代にこんな人たちはいなかった。サークルをもっと潤滑に回すためにルールをつくろうとか、このバイトの教育プランは改善する必要がある、なんてセリフは一度も聞いたことがない。(学生時代なんて、もう、だいぶ前なので記憶があやふやではあるんですがね)

でも、社会にでると、右を向いても左を向いても「ルール化しないと、仕組み化しないと」って脅迫観念をもっている人をみかけるし、石を投げれば部下・後輩の教育について一家言ある人にあたる。

でも、大体うまくいっていないよね…… なんてのが言いたいのではなくて、こういうルール化や教育が大好きな人って似た特徴もってるなーなんて思うんですよ。

なにかっていうと、本人たちは、「つくる側・おしえる側に回るのは好きだけど、まもる側・おそわる側に回るのは嫌いだ」ってこと。

ルール化したがる人は、他人がつくったルール、ヘタすると自分がつくったルールでさえ守るのが嫌いだ。教育が好きな人は、自分は自己流で成長したってなんどもなんども自慢する。そんな傾向ありません?

もしかしたらこういう人にとって、ルール化や教育は自己表現なのかもしれない。偏った承認欲求の現れかもしれない。なんてふうに考えると、春のウキウキも過ぎ去り迫り来る梅雨に億劫になるこの季節に考えがちなあれやこれやも、すこしは気が楽になりませんかね。

寄る年波には勝てないし低気圧にも勝てないから準備をしておく

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寄る年波には勝てない。ボロ負けである。腰は痛いし、心持ち肩も思い。肌に張りはなくなり、あちこちが乾燥する。

低気圧にはズタボロにされる。なにをするのも億劫になり、外出する気力が奪われる。食事も手抜きになるし、ややもすると頭痛が襲ってくる。

こういうのには敵わない。勝てない。逆らえない。だから粛々と受けいれるしかないのだ。現実はそんなものである。

ただね、予測と準備はできる。

腰が痛くなるまえにストレッチと筋トレをしたり、肌がかゆくなるだろうから保湿剤を常備しておく。スマホに天気予報や気圧を教えてくれるアプリを入れておけば、気分が優れなくなる日の準備ができるし、頭痛薬を確かめて備えることができる。

「どうにもならないこと」っていがいとおおい。これはもう流されるしかない。

でも、流されるのは仕方がないけれど、溺れないようにはしたい。なんで流されるんだ! って腹をたてるより、受け入れて右に流す(こんなネタのひといましたね)、そういうことがだいじ。

そんなふうに思うんです。

Photo credit: Raquel Sánchez Lahoz via VisualHunt / CC BY-NC-ND

継続は難しいと落ち込むサイクルを繰り返すことは継続できてます

なにをいまさらっていう話ですが、継続というのが本当に難しい。

ブログを書く、英語を勉強する、早寝早起き、やればいいのがわかっていながらも続けれない。好きなゲームなんていう楽しいことであっても飽きてしまって継続できない。

タスクツールや習慣化ツールは数あれど、それらを使うことを継続できない。

継続できないってわかっていながら、1週間くらい続けるとイシキが高くなり「継続ってだいじだよねー」なんていきがってしまう。3日後くらいに思い出して死にたくなる。

ちょっと続けて継続大事だといきがって、挫折して、継続は無理ゲーと落ち込む。このサイクルだけは継続できているかもしれない。

新人のころの自分を思い出して今のふりをなおす

新社会人のひとたちが街に繰り出す季節になった。

この季節は自戒の季節。昔の自分が嫌だったひとや嬉しかったひとを思い出して我がふりをなおしたい。

嫌だったで真っ先に思い浮かぶのは、新人にドヤ顔の説教するひとである。正確に言うと新人時代に訊いているときは「なるほどな〜 」なんて思うだけれど、時間がたつにつれて化けの皮が剥がれていく人たちである。

例えば「なぜ」を5回とかね。自分の企画のためなどに「なぜ × 5回」をするのはいいけれど、こういうのを新人にドヤ顔で話すひとは一皮むけば中身がスッカスカだ。なぜ新人になぜを5回繰り返せと言いたいのか? をなぜなぜなぜなぜなぜと5回繰り返してほしいものである。

新人の成長する速度は早い。薄っぺらい承認欲求を満たしている間に化けの皮が剥がれてしまうものである。

逆に新人のときに出会ってよかったひとは、わがままな求道者だ。じぶんの求める道のためには実力不足の新人にも妥協させない。当時は本当に理不尽だと憤っていたが今となれば本当に感謝している。今思い出しても理不尽だけど‥‥

とにかく、自分がされていやなことはしない、というのが社会人の基本なので自分にもあてはめておきたい。

知っているに絡みつくいろんな罠

「知っている」ということはスゴい武器になる。

Google先生に聞いたらいろいろ応えてくれると言っても、やはり知っている人に聞くのが一番いい。

でも、「知っている」にはいろいろな罠がある。

まずは、既得権益化される「知っている」。会社のルールとか、製品のTipsとか。誰もが「知っている」状態になるのが望ましいのに、なぜか知っている人が偉そうになって、その人は偉そうにするために意識的か無意識か知っている既得権益を守るために秘匿する。

「なんでも聞いてね」なんて‥‥ 聞かなくて済むようにしてほしいよね。

次は「知っている」つもり。知ったかぶりじゃないよ、知っている“つもり”。ネットとかで熱心に情報収集をしている人におおい罠。ネットで聞きかじった情報を正しいと思い込み、さらに自分の思い込みをないまぜにすることにより、いつのまにかそれが真実になっちゃう。実体験がないのに知っているつもりになる。

「なんでも聞いてね」なんて‥‥ それただの思いこみだよ。

合理的に突きつめて非合理になった「知っている」という罠もある。なにかひとつ成功したことを合理的に突き詰めていって、細かすぎて使いようがないまで突き詰めていって‥‥ 誰も使えない「知っている」という非合理な状態になる。イノベーションのジレンマみたいなやつやね。

「なんでも聞いてね」なんて‥‥ 細かすぎて使いどころがございません。

罠にはまらないためには、積極的に「知っている」ことを知るためのプロセス含めて開示していけばいいんだよ。そうしたら既得権益にもならないし、プロセスが恥ずかしいことに気がつくし、不必要に細かくなる前にだれかがストップかけてくれる‥‥ かもしれない。

競争が激しくなって知っている価値が落ちちゃう? 大丈夫、ちゃんとした知っているに至るプロセスは、だれでも真似ができるようでほとんどの人が真似をしないものだから。

望まれないアドバイスが承認欲求を肥大化させる

頼んでもいないのにアドバイスが飛んで来る。もっと、直球にいうと、絶対に望まれないアドバイスがそこにはある。

メーリングリストにWeb変えたよ、なんてのが流れると、「ここはもっとこうしたほうがいい、あそこはもっとああしたほうがいい」なんてね。しかもなぜか全員に返信。

こうなるとね、被爆者には「参考にしますね!!」といってスルーするしか選択肢がない。「君のアドバイスはクソで、そもそも望んでいないぞ ^^;」なんて、無理に角を立てる必要はないから。

こういう望まれないアドバイスをしちゃうひとって、アドバイスしたいんじゃなくて、承認欲求が満たされてない。からっからのエンプティーか、タンクが死ぬほど大きい。

だからね、名指しで意見を聞かれていないのに、アドバイスをしたくなった時は要注意。それはきっと、承認されていないストレスが原因だ。万が一、アドバイスをしてしまうと、承認欲求は満たされないけど、むなしさでタンクが大きくなるだけぞ。気をつけよう。おじさんとお約束だ。

電子書籍の所有権はいらないけど、書籍はやっぱり特別なもの

電子書籍の購入って、所有権が発生するわけじゃなくて、読む権利があるだけなんですよね。へぇーってなもんだけど、だからなんだって話です。

わたし、本に対する所有欲というのが特にないんです。基本的に読めれば良い。

昔はね、本棚がいっぱいの書斎とかカッコいいなと思っていました。でもですね、引っ越しを繰り返すたびに、本を買い取りサービスにだして気づくわけなんですよ。「ああ、身軽でいいなって」「やっぱり本棚の本を読み返すことはほとんどないな」って。

そんな程度の本に対する所有欲だから、場所がとらない電子書籍でも、読む権利だけで十分なんです。

こんな考えを突き詰めると、本当は潰れそうな電子書籍サービスを利用するのが良いんですよね。そのサービスが潰れればさいわい、買った金額分なんかのポイントがバックされるぞ。なんて期待できるから。

でも、それはなんとなく、やりたくないんです。

所有権は別にいらないんだけど‥‥ そういうポイントバック目当てで本を買うのは嫌なんです。これ、なんだかんだいっても、本を一種の神聖なものとして捉えてるんでしょうね。「読めればいいや」なんて強がってみても、やっぱり特別なものだと思ってるんですよね。

これは、紙の本で育ったことが原因なのか、そうだとしたら電子書籍で育った世代はどうなるのか‥‥ 言うほど興味はないんですけどね :p

想像できるよい品質を安定して提供してくれるブランドをシャウエッセンから感じた

スーパーで「シャウエッセン」を見るたびに、ブランドはスゴい!って感じるんです。

シャウエッセン、高いじゃないですか。でも、買ってしまう。他の人がシャウエッセン以外のウィンナーを買ってくると、すこし残念な気持ちになる。「高くてもいいからシャウエッセン買ってくればいいのに」って(心のなかで)悪態をつく。

これがブランドの力なのか。どうせだから、もうチョットだけ踏み込んで「ブランドとはなんぞや」ってやつを考えてみる。

考えた結果、「すこし割高だけれども、想像できるよい品質を、安定して提供してくれるもの」がブランドだろうという結論になった。

ウィンナーマニアな人からすれば、シャウエッセンなんてミーハーなものではなくて◯◯の方が絶対に美味しいというのがあると思う。

でもね、わたしはシャウエッセンをえらんじゃう。ちょっといいスーパーに並んでいる、高級な袋に入っているウィンナーを見ても、想像できずに尻込みしちゃうもの。それよりも、わたしにとっては十分に美味しいと知っているシャウエッセンを買いたい。

自分の満足を想像できる、それを安定して満たしてくれる。このふたつがブランドには重要なんじゃないのかなって。

え、だからなにって‥‥

いや、そう思っただけです。自分の中ではちょっとシックリきたので、うれしくて、つい書いただけっす。

情報収集だけは悲しい、実践できるってしあわせなこと

ソーシャルだとか、コンテンツマーケティングだとかで、いまは頼んでもいないのに情報が勝手に届けられる。情報収集が好きな人にとっては天国のような環境だ。

でもね、気をつけないと情報収集、情報をあびることに時間を取られすぎると、ただの耳年増になるだけだし、実践していない情報をあつめて知った風にアドバイスしていると似非コンサルタントになる。

それって、すごい悲しいことなんだよね。雑音に惑わされずに実践をするほうが、情報収集よりも何倍も楽しいから。

A/Bテストとかで、「コレが正解」っぽい記事は世の中にあふれている。緑のボタンがいいとかそんなことを知るのは確かにおもしろいかもしれない。でもね、その情報を実践せずにうのみにして「あそこは、ボタンの色が灰色だ。わかってないな」なんてわかった気になるのは悲しいことなんだよね。

勉強はもちろんだいじ。でもね、もっとだいじなのは目の前の実践をやり続けることで、自分が向きあう課題を解決し続けること。その実践の繰り返しでしかたどりつけない領域がそこにはあるんだもの。

情報を収集して、それを伝えて、相手に「へー」なんて感心されていたりするのは気持ちがいいかもしれないけれど、じぶんはやだな。

目の前のことをコツコツと、雑音に惑わされず、実践をできることって幸せなだとかみしめよっと。

成功した理由を、あとからきれいにつくって自分をだましちゃうこと

公開されるやいなや、あちらこちらで絶賛というか絶叫というか、とにかくすさまじい反響を生み出した記事。

www.1101.com

糸井さんがバルミューダ株式会社の寺尾さんとお話している記事。

なにがどうすごいのか? なんてのはこの記事を読んで欲しい。

note.mu

ライター&編集者で編集者の古賀さんのあふれんばかりの愛をこめて解説してくれてる。

で、今日の本題はこの記事がいかにスゴいかではなくて、記事で出てくる「あとからつくったキレイなお話」です。

元の記事では、バルミューダの寺尾さんがトースターをつくった理由として、「人は『もの』ではなく『体験』を買っている。そして、『体験』を買ってもらうには『食』にかかわらなければならない」という最高にキレイなあとからつくったお話をしてくれます。

すごい製品をつくる立派な社長さんでなくても、成功した理由を、あとからつくったキレイなお話として、気持ちよく話すことってあるじゃないですか。居酒屋で「あの広告がすごい反応だったのってさ、いままでの経験からこうだろうなって思ってたことを実践してみたんだよね」なんて話はよくあるじゃないですか。でも、だいたいあとからつくったお話だよね。オレ総研によると、居酒屋で話している成功した理由の9割くらいはあとからつくったお話だからね。

わたしも、よくやってしまいますよ。だって、気持ちいいじゃないですか。成功した理由が理路整然としていたら。

あとからつくったキレイなお話がコワイのは、いつのまにか自分をだましてしまうことなんですよね。あとからつくったお話って、ウンウンと頭をひねり出して、それっぽいのをどうにかひねり出すというわけじゃなくて、なぜか立て板に水でスルスルって出てくることが多いじゃないですか。

これがあぶない。無意識にスムーズにでてくるから本当だったみたいなんですよ。

だからね、自分もだまされちゃうんですよ。スルスルでてきたし、たくさん話してもみんないい反応してくれるわで、いつのまにか、最初からほんとうに考えていたって自分が信じちゃう。コワイコワイ。

こうなると、「成功は失敗の母」にまっしぐら。そら、失敗するよね。だって、その成功理由はほんものじゃないから。嘘もんの理由なのに、それをいろいろなところに応用しようとしちゃうってねぇ。

なにかがね、うまくいったからって、べつに正当な理由をつけなくてもいいよ。だって、成功するために努力した過程で、いろいろところに筋肉がついているんだもの。それを信じてやりたいよね。自分で自分に嘘をつくんじゃなくてさ。

正しくコンテンツを消費するって大変なこと

「いいこと言うねー」、「うーん、言わんとすることはわかるけど‥‥」、「いやいや、お前が言うな」。正しいこと、素晴らしいことっていうのは、誰が言うかによって中身が大きくかわる。

例えば、「君のことを精一杯しあわせにするよ」なんて全力で素晴らしいことであっても、働きもせずに口ばっかりでゴロゴロしている人と、いろいろ苦労しながらも伴侶のために一生懸命がんばっている人では、おなじことでも中身は全く異なってくる。

でもね、字面であったり表面上は同じ「精一杯しあわせにするよ」なんだよね。

最近では、一生懸命がんばっている人の「君のことを精一杯幸せにするよ」がコンテンツになって拡散されて、よくないゴロゴロだけしている人がそのコンテンツを消費して、ソーシャルとかに「俺もいまの伴侶を精一杯幸せにしたい」なんてポストするっていう悲しいパターンがある。いや、いいから働けってね。

マーケティングなんかでいうと、日々数字と向き合いながらビジネスしている人が「やっぱりね、目先のことだけでなく、中長期的なことを見据えて認知というものに投資しないとね」なんて言うと、「そうだよね、やっぱり数字だけけじゃなくて、数字に現れない認知がだいじ」なんて間違ったコンテンツ消費をするひとが出てきたりする。いいから、まずはビジネスに貢献しろってんだ。

正しいこと、素晴らしいことって、やっぱりコンテツとして力を持つんですよ。だけどね、それを消費するのって、実はそれなりに大変なんですよね。

 

photo by SAM & Sophie Images