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ひとりますだ

店は客を選んでよいのか

いつだったか母親と「店は客を選んで良いのか?」というような話になった事がある。なぜだったろうか?たしか、母親の知り合いが働いている店でクレーマーに出くわしただとかそんなのがきっかけだった気がする。歳をとるということは、このような「何気無い会話を親と語れるようになるということ」なのだろうかなどと感じたがそれはまた別の話。

私自身は店が客を選ぶのは当然の権利だと思っていた。ただ、母親はそうではなかったらしい。あの人は「どんな場合であっても、相手が客である以上最善を尽くすべきだ」というような事を言っていた。

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話が少し脇道にそれるが日本のサービスレベルというものを考えてみたい。唐突ではあるが「店は客を選んで良いのか?」という話に関わる問題なのでご容赦頂きたい。

よく、日本のサービスレベルは世界一などと語られるが、それには違和感がある。確かにサービスレベル・対応レベルは総じて高いだろう。ただし、そのサービスレベルは「本来必要ないもの」では無いかと感じる。客は求めすぎ、店は応えすぎなのである。

安居酒屋で店員に愛想を求める事などがその典型例であろう。安居酒屋でも愛想がいい対応に巡り会える事があるかもしれない。ただし、そんなモノはコアラのマーチの眉毛のようなもので「あったらラッキー」というようなものである。

客が安さを求めていく以上、店側は高い回転率と少ない人経費で対応していく必要がある。そこに店員の愛想が必要だろうか?明らかな過剰要求である。本来ならサービスを求めるならばそれなりの対価を支払う事が当然に必要だ。しかしそうならずに、客は人のサービスには対価を支払わない。モノには対価が必要である事を理解できるのに人には対価が必要なことが理解できないらしい。これは提供側も同様で人のサービスは無償で提供していく。このような構図がサービスの品質を支えている気がしてならないのだ。

客が無償でサービスを求める時に対応するのが店側の責任者の場合はまだ良い。自分の責任で対応できるから。しかし、対応する人間が責任を取れない場合は、「お客様は神様」的なよく分からない信仰と、揉め事の回避のために過剰サービスに陥る傾向がある。

このような担当者の過剰サービスに店がタダ乗りすると、客は過剰サービスを勝ち取り、店は事なかれ主義で進行していくことができる。ただ、担当者のストレス耐性が削られていく。

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「選択の科学」という本では選択できる事と寿命の関係が述べられている。曰く、会社経営者のような選択できる範囲が広い方が、寿命が長いそうである。ストレスと寿命は密接に関わっており、選択とストレスもまた密接である。故に、選択と寿命も密接であるということであろう。

こう考えると、店が客を選べるという事は当然であうと同時に、店が客を選べないという考えは非常に危ないのではないかとすら思えてくる。もちろん、人と人が交わる以上ストレスという問題は必ずそこに存在する。サービスレベルの要求が至極まっとうである場合もあるだろう。ただ、それでもやはり基本路線としては、店とくに担当者は相手を選んで良い。選択権は奪われるものではないはずだ。

それに立脚したうえで、仕事として客にどのように接するのかという事を定義して、任務を遂行すれば良いのではないだろうか。

問題は、母親と話していた時に「店は客を選んでもよい」と答えた時には、こんな事を一切考えておらず完全に後付であるという事ぐらいか......

選択の科学

選択の科学