居酒屋でのテレホーダイ懐かし話禁止令なんか出た日には何も話すことがなくなる程度のおっさんです。皆様は如何お過ごしでしょうか。
インターネッツとの出会いは入学祝いで買ってもらったiMacでした。オレンジ色(タンジェリンと呼ばれていた)した筐体からインターネットに接続した時の衝撃は、、、覚えてませんね。凡人なんてそんなもんです。記憶の捏造をして「あの時の衝撃は忘れることができません。」とか書こうかと思ったのですが、その続きが出てきませんでしたので素直になります。
出会いは覚えていませんが、インターネットにはどっぷりとハマりはしました。テレホーダイの時間は常にディスプレイにかじりついてネットサーフィンです。なんでも出てくる玉手箱のような存在にドキドキと胸を弾ませた感覚は、、、まあ、これも特に残ってはいないですね。残っているものはrmファイルのストリーミングをどうすれば保存できるのかと試行錯誤した記憶ぐらいですね。
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物心ついた後にやってきたこのインターネットはとてつもないモノに見えて、無限の可能性があると信じていました。
その頃イメージしていたインターネットというやつは、下のようなイメージだったんですね。
リアルの外周にインターネットが存在している。インターネットはリアルを拡張するもんだと思っていたんですね。「インターネットというリアルの向こう側に住む」とか、今となればよくわからない2.0な人達の言説をカッコイイとか思っていたのも今となってはいい思い出です。
ただ、インターネットはあたり前にリアルの一部でしかないんですよね。
たぶん、生まれた時からインターネットがそばにあるデジタル・ネイティブの人達なんかはこんな事いわずもがなだとは思います。ただ、物心ついた後にインターネットに触れたデジタル・イミグレイト(デジタル・ネイティブの反語ってこういうらしいです)は、過剰に反応して課題に期待をしていたので、インターネットを身近な物と捉えるのは意外に難しかったりします。
どうしても特別扱いをしてしまう。道具として見れず世界として見てしまう。だからかもしれませんが、デジタル・ネイティブと言われる人達が身近なインターネットをモバイルデバイスに持ってきているアプリを見るにつけ、その感覚に素直に脱帽します。
モバイルファーストという言葉自体は、ガラケーの頃から聞いていたし、スマホになって実感できる事もしたけれど、このインターネットに対する過大評価というのが「おっさん世代にとっての足かせ」になったりするんじゃないのかなどと思っています。
いっその事、インターネットを無視してリアルに価値を求めていくのもありなんじゃ無いかなんて思う。中庸にはいつになったらたどり着けるのだろうか......